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パンケーキ

 昨日は真冬みたいに寒くて縮こまっていたが、きょうは一転して10月半ばの陽気。当然ながら、観光客の大軍が押し寄せること必定なので、朝一番で駅前のスーパーに買い物に行く。
 スーパーに行く前に、思うところあって、マックでパンケーキ(ホットケーキ)を食べる。
 
 亡くなる2週間くらい前から、妻は病院の食事にほとんど手を付けなくなった。体を浄化しようとしているのだということが判っていたから、無理に食べさせることはしなかった。ただ、好きなものをひとくち食べればいいと思っていた。
 毎朝、マックに行って、パンケーキを買い、病院にもっていって、妻と一緒に食べた。妻はパンケーキが好物だったのである。ほんのひとくちしか食べないので、後は私の朝食になるのだった。
 亡くなった後、担当ナースからお手紙をもらったが、そこにも、「毎朝ご主人がパンケーキを買ってきてごいっしょに食べていらしたことが思い出されます」と書かれていた。
 
 だからマックのパンケーキは私にとって特別の食べ物である。私たち夫婦のいわば「最後の晩餐」だったのである。

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妻の思い出 (2)

 妻の高校時代最大の「事件」は、麻布高校の文化祭の演劇に客演して麻布生のアイドルになったことだろう。
 男子校の文化祭に女子校の生徒を出演させるという、当時としてはまったく型破りなことを考えたのは、この芝居の脚本演出を手がけた沢田博さん。「ニューズウィーク」日本版その他の編集長として有名な、レジェンド編集者・ジャーナリストの、あの沢田さんである。
 どういう経緯で妻が麻布の舞台に出演することになったのか、詳しいことは知らないが、その前から沢田さんたちとなんらかの交流があったのだろう。
 
 ちょっと話が逸れるが、私は高校時代、ピーター・ポール&マリーのコピーバンドをやっていた。私は男子校育ちだが、当然、女子が必要である。友だちの友だち、という感じで、女子校に通っているめちゃくちゃ歌のうまい子と知り合い、彼女をスカウトして、2年ほど活動していた。だから私も男子校の文化祭に女子高生を出演させたのである。
 ちなみに、その女の子は高校卒業後、あるデパートに就職し、そのデパートのコーラス部の部長を長いことつとめていた。
 20歳くらいまで交流があったが、その後は連絡が途絶えてしまった。
  
 話を亡妻に戻すと、麻布の文化祭がきっかけになったのかどうか、知らないが、高校から大学にかけて、妻はどんどん演劇の世界にはまっていき、ついには大学を休学して、劇団の研究生になった。三島由紀夫が主宰していた浪漫劇場である。女優の卵だったわけである。
 妻は太地喜和子の大ファンだった。書棚には太地の伝記もある。演出家の木村公一さんとも親しく、木村さんが鎌倉の井上ひさし邸を訪れると、妻も呼ばれて井上邸に行ったりしていた。
 女優の卵時代の妻は眉毛を剃っていて、緑魔子によく似ていた。
 演劇の話に戻ると、女優の卵時代の「同期の桜」が、有名な名取事務所を主宰している名取さんである。名取さんは、俳優としても演出家としても才能がなかったのだが、プロデューサーとして大成功をおさめた人である。
 大学卒業後は演劇の世界から「足を洗い」、ホテルの通訳を経て、資生堂の宣伝部に就職したのだった。上記の名取さんの話では、女優の卵時代も、どこかお嬢さん育ちが抜けておらず、まわりと違って「品がいい」ので、目立っていたそうだ。だから「足を洗った」ときも、納得したという。
 
 
 時代を少し遡る。高校卒業後、国際基督教大学に進んだ。家からあまりに遠かったので、途中から大学の寮に入り、その後、荻窪あたりにアパートを借りていた。
 卒論のテーマは、イギリスのファンタジー作家アラン・ガーナーである。『ふくろう模様の皿』『エリダー』などが日本語に訳されている。妻はファンタジーというものにとくに興味をもっていたのである。「生涯のテーマ」のひとつだった。
 ガーナーに関しては後日談がある。私のサバティカルのとき、家族3人で一年半ロンドンに住んでいたのだが、妻はある学会で、自分が卒論を書いたそのガーナー本人に初めて会った。そして自分の卒論を思い出しながら、ガーナーのファンタジーの本質に関して、短い論文を英語で書き、ガーナーに送ったのである。
 英語に関して、妻は話すことと聞くことは私より遙かにうまかったが、話すのに比べると英文を書くのは得意ではなく、そのファンタジー論も、私が全面的に直してあげた。
 ガーナーからは、とても面白いという手紙がきた。そのガーナーの手紙は、きっと探せば、妻の書斎のどこかにあるはずだ。
 
 ガーナーはチェシャーの作家なので、ロンドン滞在中に一度、家族でチェシャーに旅したことがある。作品の舞台になったと言われる山に登ったりした。
 
 奇遇というか、ロンドンに住んでいたとき、ちょうど、BBCテレビが『エリダー』を実写ドラマ化し、毎週土曜だったか日曜だったかに放映していた。当時、小学5年生だった娘がこのドラマにはまってしまった。ビデオに録画して、何十回も繰り返し観ていた。
 じつは、うちの娘は幼い頃から大変な「男好き」で、まだよちよち歩きの頃に、空港で会った外国人の男の子に惚れ込んでしまったという「事件」があったほどだ。
 その娘が『エリダー』の主人公の少年に夢中になってしまったのだ。『エリダー』というのは、現実世界と異界とを往復しながら物語が進行するのだが、台詞はすべてチェシャー方言である。娘はそのチェシャー方言の台詞をほぼ完全に暗記してしまった。
 (続く)

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妻の思い出 (1)

 ラカンを引くまでもなく、人間は二度死ぬ。生物学的な死と、象徴的な死。前者は臨終の瞬間であり、後者は葬儀だ。ラカンのいう「象徴的」は、大雑把には「社会的」と言い換えてもいい。
 葬式をするのは人間だけなので、考古学では葬儀の遺跡が問題になる。葬儀は、人間が人間になったことの証拠だから。
 しかしその二つに加えて、第三の死がある。人びとの記憶から消えることだ。
 ひとは死んでも、ひとびとの記憶の中で生き続ける。だが覚えている人がいなくなったとき、そのひとは第三の、つまり最後の死を迎える。
 一部の例外的な人だけが、何千年も人びとの記憶に残り続ける。ソクラテスは何も書き残さなかったが、プラトンの著作を通じて、いまだに生きている。
 だが、それは本当にごく一部の人だけの特権だ。
 
 前置きが長くなったが、四十九日に開いた「灰島かりを偲ぶ会」で、出席したみなさんに、妻の生涯について簡単に紹介した。考えてみたら、その会に出席していなかった人のために、まだ何も書いていない。
 facebookはあっというまに遠く消え去ってしまい、自分でも探すのに苦労するくらいだ。ブログならある程度残る。
 できれば、ちゃんとしたウェブサイトに書くべきなんだろう。
 私は10年以上前に「Sho's Bar」というウェブサイトを作って、いまだにNTTのサーバに金を払い続けているのだが、ワードプレスやらなんやら、最近のウェブ制作事情に疎くなってしまったので、開店休業状態が続いている。
 来年、大学を辞めたら、ちゃんとしたものを作り、ここに書いたことも、そちらにコピーしようと思う。
 妻が少しでも多くの人の記憶に、たとえわずかでも残りますように。
 もちろん、妻が書き残した未発表原稿も掲載したい。
   
 妻の旧姓は蓜島。くさかんむりに「くばる」である。以前はパソコンでは打てなかったが、最近出てくるようになった。きわめて少ない苗字である。
 生年月日は1950年6月2日。私より2歳上だ。
 年齢詐称のエピソードは以前書いたので省略。
 実家は江戸川べりにあった「鴻月(こうげつ)」という、川魚(鯉とか鰻とか)の料亭だった。かなり大きな料亭だったそうだ。江戸川乱歩が常客だったと聞いたことがある。
 市川駅からバスで20分、バス停から歩いて15分という、かなり不便な場所だったようだ。
 
 小学校は地元の公立にいった。高学年のときに担任教師(若い男性)からセクハラを受けたという話を何度か聞かされた。放課後、教室で、先生の膝に載せられ、体を触られたと言っていた。それで学校に行くのが苦痛だったという。
 
 妻は子どもみたいな字を書いた。小学校時代、書道教室に通っていたそうだが、その先生が「自由に延び延びと書くべし」という方針の先生だったので、ちゃんときれいな字を書くことを教えなかったらしい。その先生から、いつも「きみの書く字はのびのびと自由で大変よろしい」とほめられていたおかげで、人から「字がへただねえ」と言われても、まったくコンプレックスを感じなかった。幼い頃の刷り込みというのは恐ろしいものだ。
 資生堂時代、編集長から「手紙は他の人に代筆してもらうように」と命じられていたそうだが、本人はまったく屈辱感を抱かなかったそうだ。
 じつは初めて彼女から手紙をもらったとき、その字を見て唖然としたのだが、本人は「あなたの字こそ、お習字の先生みたいでいやらしかった」と言っていた。
 とはいえ、ご祝儀などで封筒に字を書かねばならないときは、わが家ではいつも私が書いていた。
    
 小学校では成績が学校で一番だったので、高学年になると、毎日曜、父親に連れられて、四谷大塚進学教室に通っていた。父親は、毎日曜に娘を進学教室に連れて行くのがいちばんの楽しみだったという。
 家は料亭だったが、しきっていたのは父親の母(妻の祖母)と、母(つまりお嫁さん)で、父親はあれこれいろんな事業をやっていた。
 新婚時代に、「そのまま料亭をやっていれば、きみがおかみさんで、私は『朝が来た』の旦那さんみたいに、芸事にでも没頭していられたのになあ」と、よく冗談を言ったものである。 
 中学を受験して、お茶の水女子大学の付属中学校に入った。通学にはかなり時間がかかったにちがいない。
 「お茶」では、幼稚園からいる子が超エリートで、小学校から入った子が順エリートで、中学から入った子は、勉強のできる庶民なのだ、といつも言っていた。
 ご存じの通り、女子大学の付属といっても、小中は男女共学である。
 中学高校時代のことは、同窓生のみなさんのほうがずっと詳しいだろう。
 亡くなった後、「偲ぶ会」で配る図録を作成するため、妻のアルバムを片っ端から引っ張り出してきたのだが、中学高校時代の写真がほとんどないので、驚いた。
 でも考えてみれば、私の中高時代の写真もそれほどない。昔は写真がそれほど日常的ではなかったのだ。私たちはそんなことも忘れかかっている。
 下に書くように、オーストラリアに留学していた間のアルバムも、自分が撮った写真ばかりで、自身が写っている写真はほとんどない。考えてみると、私も若い頃、旅行に行ったときなど、けっこう写真を撮ったが、「自撮り」はほとんどしなかった。昔のカメラは自撮りできなかったし。
  
 高校時代にオーストラリアに一年間留学した。これは父親のコネで、ロータリークラブの奨学金をもらったんだそうである。その一年間で英語力を身につけ、さらに国際基督教大学に進んだので、さらに英語に磨きをかけた。大学卒業後、しばらくホテルで通訳をやっていた。
 留学のため、卒業が一年遅れた。だがそのおかげで、二学年にわたって親友たちができた。
オーストラリアから帰って直後の写真をみると、まるまる肥っている。
 
 話が前後するが、ホテルで通訳をやっていたとき、アメリカだかイギリスの有名な催眠術師の通訳をやって、実験台になったが、妻は催眠術がかかりやすい性質で、かかったまま、なかなか覚めなくなってしまった。じつはその日、大学の卒業式で、それに遅刻したため、いわゆる丸囲み写真になってしまったそうな。
(続く)

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 ご存じの通り、夢は、自分ではコントロールできない。
 ただし、夢にも浅い夢と深い夢があって、浅い夢のほうはある程度コントロールできるので、寝るときにはかならず亡妻のことを考えるようにしている。夢に出てきてほしいからだ。でも、なかなかあらわれてくれない。
 それが、昨夜は久しぶりに出てきてくれた。病魔に冒される前の美しい妻が。
 ふたりで、どこか外国のホテルにいた。私は夢の中でも、それが夢であることを知っていて、妻に、「病気が治ったらこんな暮らしをしていたんだろうな、というような、可能性としての未来を、こんなふうに夢の中で生きられたらいいね」と言った。
 妻は黙っていた。
 長時間ふたりでしゃべっていたような気がするが、たまたま明け方に目を覚まし、夢を見る前に時計を見て、見た後にも時計をみたので、ほんの5分間にすぎなかったことを知った。
 
 フロイトの夢理論を解説するつもりはないが、夢はストーリーになっているが、夢をストーリーに組み立てるのは覚醒した瞬間の「二次加工」であって、夢はストーリーとして展開するわけではない。たぶん100個くらいのモニタを同時に眺めているような、そんな感じだろう。だから一瞬でも、長編映画くらいの長さの夢が見られるのである。
 
 眼が覚めたら枕がびっしょり濡れていた。悲しいから泣いたのではなく、うれしくて泣いていたのだ。

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