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鎌倉の図書館

 鎌倉市中央図書館は、以前、「学校に行きたくない子は図書館にいらっしゃい」というメッセージを発信したことで有名だが、この図書館に手紙を書いて、妻の著訳書を展示してもらえないかと頼んだところ、明日から展示してくれるそうだ。
 この図書館は、歴史的建造物である御成小学校の近くにあり、妻がこよなく愛した図書館だった。よく車で妻を迎えに行ったり、送り届けたりした。
 妻は本当によくこの図書館を利用していた。自分のカードだけでは足りなくて、私と娘のカードもフルに活用していた(これはあまり大きな声ではいえないが)。
 
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年齢詐称

 結婚するとき、妻は年齢を詐称していた。
 などと書くと、なにか物騒だが、もっと他愛ない話である。
 そもそも結婚のときは戸籍謄本を出すのだから、詐称なんてできないでしょ、というご意見もあるでしょう。
 まず、今から35年も前の話であることを申し上げておく。私を含めて日本人というのは忘れっぽい人種だから、35年も前の日本社会を正確に記憶している人がどれほどいるだろうか。妻は年上であることを気にしていたのである。
 
 妻と初めて会ったのは1981年の秋のこと。場所は新宿ゴールデン街の「ジュテ」というバーだった。元フランス映画社にいた女性がママをやっていた。
 その少し前に、中学一年のときからの友人である四方田犬彦から電話があり(当時はケータイもメールもない)、「花椿」につとめている女性の知人が、翻訳をやってみたいので、誰か翻訳界のことをよく知っている人を紹介して欲しいと頼まれたという。それで私と引き合わせたいという話だった。当時、私はまだ2冊くらいしか訳書を出していなかったが。
 妻と四方田とは、山田宏一氏の家で知り合った。平凡社の関口さんが紹介したのだそうだ。そのことは、先日の四十九日の会のとき、関口さんの口からきいて、はじめて知った。
 山田さんは四方田の映画評論の大先輩であり、妻は「花椿」の原稿を山田さんに依頼していただけでなく、山田さんの翻訳の下訳をやっていた。四方田も妻も、山田宏一さんを囲む若者たちの仲間に属していたのである。
 
 一部の人には有名な話だが、2度目のデートで結婚を申込み、イエスの即答を得た。キスも、もちろんセックスもしないで、である。いわゆる電撃結婚である。
 その翌週には私が妻を家族に紹介し、その次の週に私が妻の実家を訪ねた。そのとき、妻の母親から「いつ式を挙げるんですか」と聞かれて、「これから式場を探します。式場が見つかるかどうかによりますが、まあ1年後くらいでしょうか」と答えたら、「それは困ります。もっと早くして下さい」と言われたのを妙に良く覚えている。
 当時、妻は31歳だった。6月になると32歳になってしまうというので、31歳のうちに嫁がせたいという意味だったようである。先に述べたように、35年前の日本の話である。
 
 結局、4月2日に式を挙げた。私は誕生日前だったので29歳、妻は31歳だった。
 その前に、妻から折り入って話があると言われた。自分の出生日は戸籍上は1950年6月2日だが、事情があって親戚のある人物と戸籍を入れ替えた。1951年3月2日が本当の出生日なのだ。だから結婚時には、本当は30歳なのだ、と。
 後から考えれば、そんな馬鹿な話はありえないのだが、なんとそのとき私はそれをそのまま信じた。そして自分の両親にも、彼女の実年齢は戸籍の年齢よりもひとつ下なのだ、と説明した。
 翌年の7月13日に娘が生まれた。じつは前日だったか前々日だったか忘れたが、破水して、私が車で病院に連れて行き、そのまま入院になった。で、誕生予定日の朝、病院に電話したら、「陣痛促進剤を使うが、生まれるのは早くて夕方だろう、深夜になるかも知れない」と言われた。それで、徹夜に備えて、読む本などをもって、妻の母を乗せて、病院に向かった。
 その車の中で、妻の母が「あの子を生んだときも暑い日で・・・」と話すのを聞いて、思わず「あれ、生まれたのは3月じゃなかったんですか?」と聞いた。妻の母が、いったい何の話だというので、私が妻から聞いた話をすると、それは嘘です、と言う。このとき、ばれたのである。
 あとで妻にその話をしたら、「えへへ、ばれちゃったか」と言って舌を出していた。
  
 病院に着くと、なんと娘はすでに生まれていた。何しろ妻は薬というものを飲んだことがないので、陣痛促進剤がすごくよくきいて、予定よりずっと早く生まれてしまったのである。だから、ドラマなどでよくある、廊下で待っていると分娩室の中からオギャーという声がする、というシーンは経験しなかった。
 
 その後しばらくして、その話をうちの両親に話したら、ふたりは腹を抱えて笑い、「なんて可愛い子なの! おまえは本当に可愛いお嫁さんをもらって、よかったね。大事にしなくちゃだめだよ」と言っていた。
 私の両親は妻のことをものすごく可愛がっていた。父はもう30年近く前に死んだが、母は生きている。が、施設に入っていて、認知症もだいぶすすんでいるので、妻の死は知らせていない。亡くなるまで知らせないつもりだ。
 
 先に述べたように、私たちを引き合わせてくれたのは四方田犬彦だったので、結婚式のときに、新婦の分の伊勢エビを彼にプレゼントしようと言っていたのだが、式場の人からそんな面倒臭いことはできない、と言われてしまった。
 この話には後日談がある。
 メールで、四方田に妻の死を知らせたところ、彼は、自分がふたりを引き合わせたという事実はない、と断言したのである。
 これには面食らったが、考えてみれば、その機会は、私と妻の一生を決定したのだったが、四方田にとってはさほど重要な事件ではなかったのだろう。それで忘れてしまったのだ、忙しい人だし。記憶とはそんなものだろう。 

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bird by bird

 遺されたものの勤めが目の前に山積されている。
 蔵書も膨大だが、それは別として、まず書類の山と格闘しなくてはならない。ダンボール箱10個分くらいある。
 妻はなんでも書類を捨てないで保存する性格だったが、整理分類がとても追いつかないので、数年前からの未開封郵便物がどっさりある。
 何か書類が必要になったとき、捨てていないからかならずどこかにあるのだが、どこだか、わからない。私はよく「それじゃ、無いのと同じじゃないか」「きみの人生の半分近くは探し物に費やされているね」と、からかったものだ。

 書類の山を前にして溜息をつく妻の姿が今でも目に焼き付いている。
 そんなとき妻はいつも自分に言い聞かせるように、 Bird by bird と唱えていた。どこから手をつけたらいいか、わからないときは端から一つずつ片付けていくほかない、という意味だ。
 私は英語の格言か何かだと思っていたが、あるとき妻に聞いてみたら、高校時代にオーストラリアに留学していたときのホストファミリーのお父さんの口癖だったそうだ。
 書類の整理には数ヶ月かかるだろう。
 これが終わらないと、自分の死の準備ができない。
 もちろん自分がいつ死ぬかは神のみぞ知ることだが、自分のこれからの人生はひとえに死の準備なのだと悟ったおかげで、心が少し落ち着いた。

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妻への手紙(2)

 1年ぶりに海に行ってきたよ。いつもの由比ヶ浜さ。駐車場のあのおじさんに「今日はひとりですか」と言われて、「家内は死んじゃいましてね」と答えたら、あのおじさんの奥さんは若いときに子宮ガンを患ったけど、手術で治ったそうだ。いまも健在だと。
 いいなあ。うらやましいなあ。でも検診に行かなかった君と、無理やり検診に連れて行かなかった私の共同責任だから、誰も責めることはできないね。
 毎年、夏になると、海好きの私に引っ張られて、君も毎日のように由比ヶ浜に泳ぎに行った。変な夫婦で、子どもが小さいときは一度も連れて行かなかった。鎌倉の海は汚いと頑なに信じていたから。
 碧が家を出て行ってから、ふたりで行くようになった。君もボディーボードがずいぶんうまくなった。
 去年の夏は、もう君は海に入ることができなくなっていたので、私がひとりで行っていたけど、一度だけ付き合ってくれた。私が海に入っている間、ビーチのカフェでアイスティーを飲みながら新聞を読んでいた姿が思い出される。
 きょうは帰りに「志幸」でそばを食べた。君もあの店が好きだったね。でも、月曜定休であることを忘れて、二度も、月曜に行って、二人してがっかりしたね。仕方なく「麺好み」に行って、ふたりで顔を見合わせて、小声で「この店、まずいね」と言ったりした。
 
 ふたりでいっしょにいた場所に、独りで行くのは本当に辛い。
 でも、君にその思いをさせなくて済んだ、と考えるようにしよう。
 
 君は鮨が大好きで、鮨屋に行くのも好きだったから、私は君が死んでから鮨屋に行けなくなってしまったけど、この前、四十九日の法要が終わった後、碧と二人で力鮨に行ったよ。入院する前の週に、君は碧とふたりであの店に行ったんだよね。それが最後の鮨屋になったね。 
 きみは子どものころ、お勉強ばかりしていたから、子どもの遊びをあまり知らなくて、結婚してからいろんなことを覚えて、すごく楽しんでいた。
 最初は芝そり。まだ碧が2歳くらいのとき、ゴミ捨て場から畳んだ段ボール箱をもってきて、江戸川の土手で、親子3人ですべったね。
 次は凧揚げ。あの頃は月島のマンションの隣が空き地で、その空き地で正月に凧を揚げた。君は凧揚げ初体験で、興奮して、何度も「なんて楽しいの!」と繰り返していた。
 そしてスノーケル。初体験はハワイのモロキニ島だった。行きの船で、君は船酔いしてマクドナルドの紙袋を口に当てて、ゲーゲーやっていた。碧がそれをみて、なにかをないしょで食べているんだと思って、「ママ、ずるい、私にもちょうだい」と言っていた。
 ハナウマ湾でも、ニューカレドニアのイル・デ・パンでも、プーケットでも、ピーピー島でも、サムイ島でも、ジャマイカでも、スノーケルを楽しんだ。
 私は、ハワイ島のキャプテン・クック・モニュメントが最高だったな。
 
 帰りに、税務署にも行ってきた。やらなくてはならないことが膨大にある。でも、こればかりは誰にも頼めない。君が遺していった段ボール何箱もの書類は、まだ手つかずだ。今年の夏休み(最後の夏休み)は、その書類の整理で終わってしまうだろう。
 
 


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妻への手紙(1)

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8月2日
  
 あれこれ一段落したので、4ヶ月ぶりに鎌倉に帰ってきたよ。
 

「灰島かりを偲ぶ会」は、出席者のみなさんから「心に残るいい会だった」と言ってもらえたよ。
 霊能者のHさんが「見えませんか。貴志子さんはずっと晶さんと碧ちゃんの間にいますよ。私にはすごくよく見えます」と言っていたよ。
 四十九日の法要、納骨も無事に終えたよ。住職はその2日前にわざわざ図書館に行って、きみの書いた本や訳した本をあれこれ読んで下さったそうだよ。いい住職でよかったね。「かり」という前代未聞の戒名を付けて下さったし。
 
 きみが入院しているときから、週に一度は鎌倉に帰っていたけど、渋滞を避けるため、いつも早朝に東京を出て、昼には東京に帰っていたから、いつも家じゅうの鎧戸を全部開けて風を通すだけだった。久しぶりに帰ってみたら、家じゅうカビだらけ。家中掃除するのにまる二日かかった。
 じつは先週来たとき、家全体が虫の巣窟になっているような気がして、バルサンを6個仕掛けた。ムカデ除けの薬もまいた。
 昨日はまず裏門から勝手口までの通路の草刈をした。草ぼうぼうで、このままじゃヤマトのお兄さんにわるいからね。寝室と書斎を掃除したところで、昨日はダウン。きょうはお手伝いさんにも手伝ってもらって、なんとか家全体をきれいにした。これで住める。
  
 花がたくさん届いた。
 うちにはいつでも花があったね。きみは買い物に行くと、かならず花を買って、絶やさないようにしてくれていた。
 きみは本当に日常生活を大切にしていた。余命半年とわかったとき、きみに何がしたいかと訊いたら、「ふつうの生活を続けたい」と答えた。
 
 昨日の早朝に着いてから今日までずっと泣いている。まる一日以上ずっと、だよ。ティッシュを一箱使っちゃったよ。蛇口のパッキングが古くなって、ぽたぽた水が漏れ続けるみたいなもんで、どうも涙腺の栓がこわれちゃったらしい。
 そりゃそうだよね、25年間いっしょに暮らした家だもの。隅から隅まで思い出で一杯。高橋たか子さんが学生時代の友人の黒川紀章氏に頼んで設計してもらったこの家に、高橋さん自身は数年しか住まなかった。私たちは25年も住んだ。まるで高橋さんが私たち夫婦のために建ててくれたみたいだ。
 君の写真の横に、高橋さんの写真。これからこの2人の女性が私を守ってくれるんだろうか。それとも重くのしかかってくるのかなあ。守護神が2人いると思いたい。
 
 家の中を見渡して、何を見ても涙が出てきちゃう。台所でなにか作ろうと思って、菜箸をみたら、先が黒く焦げている。懐かしい。
 若い頃、私がトマトの湯むきをしていると、「トマトは皮に栄養があるんだよ」と文句をいっていた君が、胃の手術後はトマトの皮が食べられなくなって、いつもトマトをガスであぶって皮を剥いていた。だからうちの菜箸は全部先が黒焦げになっている。それを見たらもう涙が止まらなくて・・・
 
 胃の手術の後、予防のために抗がん剤を飲み始めたけど、きみはすぐに気持ちがわるくなって、1週間でやめてしまった。20%の人にしか効かないってこともあったしね。そのとき、「私が栄養たっぷりの手料理でガンを退治してやる」と言ったら、きみはぺこんと頭を下げて、「よろしくお願いします」って言った。でも結局、退治してやれなかった。ごめんね。
 
 きょうは朝から、君の「わ〜い」が耳について離れない。「夕食は何?」と訊かれて、君の好物のサヨリの刺身だ」と答えると、本当にうれしそうに、子どもみたいに「わ〜い」と言ったね。
 入院してからも、鮨屋で鮨を握ってもらって、病室にもっていき、「鮨をもってきたよ」というと、「わ〜い」と言った。でも入院してからは、その言葉にも、もう力がなかった。 


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